キラキラネームが不良なら

~ 逸脱行動 ~

茶髪

ちょっと前のこと、高校生の髪染めが取り沙汰されていた。茶髪の禁止は珍しくないけれど、報じられていたのは、女子生徒が褐色の地毛を黒く染めるよう命じられたという話で、指導に従ったものの不十分とみなされ、文化祭や修学旅行、新学期のクラス編成から排除され、精神的苦痛への損害賠償を求める裁判を起こした、というものだった*1

多感な時期に頭髪検査やら持ち物検査やらで規則とか禁止とか違反とか言われた身としては、「またやってる…」「まだやってる…」と思う。生徒への対応は報復にしか思えないし、身体の特徴の否定は人権侵害。地毛の茶色を可とすると、皆が茶髪にして地毛だと言い張るので、生まれついての髪の色でも黒く染めさせるのだという。もしもキラキラネームの子に行ないの良くない子が多いと考えたら、改名させるのだろうか。そもそも、地毛であろうが染めようが、髪の色を学校の規則で禁止する合理的な理由って何なのだろう。

子供の頃、髪を染めたり脱色したりしているのは、ちょっと悪い人かヘンな人だと思っていた。そういう外見の人はたいてい、ちょっと怖そうだった。でも1990年代半ばくらいに「チャパツ」という言い方ができ*2、その頃の現代用語辞典はこの新語をツッパリの代名詞のように紹介していたけれど、年齢性別問わず茶髪をふつうに目にするようになって、黒くない髪は特殊ではなくなったと思っていた。茶髪は不良だというのは前世紀の考え方だと。

エビデンス

女子生徒に厳しく応じた高校に対して批判的なコメントが多いなか、そういう批判は荒れている学校の現実を知らない人の発言だという指摘を目にした。非行と茶髪はリンクしていて、先生たちは徹底した指導が有効だと言っているという。茶髪が非行につながるというのはステレオタイプに思えるけれど、そういうものだろうか。個人の人格にかかわることなので、そしておかしいと感じている人もいるので、現場の主観だけでなく、客観的な根拠を知りたいと思う。規則に反してまで髪を染めるような生徒なら、ほかにも問題を起こすのかもしれない。でも単なるオシャレで髪を染めたい子もいるだろう。茶髪なら皆、不良なのか。髪の色と問題行動の関連を調べた統計データってないのだろうか。髪染めと問題行動に相関関係があったとして、因果関係はどうなのか。

髪を染めたら不良になるのではなく、不良は髪を染めたがるのだと思う(髪を染めたら、不良とは言われる)。髪の色や服装を指導するのは効果があるというけれど、それは問題行動を象徴する(とみなした)髪の色や服装をまとった生徒を選んで指導した成果では。髪を黒くしたら不良が改心するということではないだろう。指導する側は問題行動に手を焼きいらだっているのだろうけれど、指導される側の経験からは、現場の思想が感情論と力ずくにみえる。なぜ髪染めを禁止するのか(大人や他校の生徒は許されるのに)、禁止したり強制したり排除したら具体的にどれくらいの効果があるのか、当の生徒に対しても保護者に対しても、学校を運営する自治体に対しても、自治体にかかわる納税者や有権者に対しても、権力を行使する側が、論理的に説明する必要があると思うのだけれど…。

逸脱行動

問題行動に及ぶ生徒たちが髪を染めようとするのは、それがかっこいいからだろうか、それとも禁じられているからだろうか。規範からの逸脱は彼らにとって大事な自己主張かもしれない。逸脱は世間で好まれないとしても、なぜか学校はことさらに、ほかと異なる存在を嫌がり、画一化したがるようだ。規格から外れたら問題視されてしまう。会社でも対外的な事情などで茶髪不可というところはあるけれど、いまどき髪を染める行為を反社会的とみる向きは少ないだろう。逆に学校が好む坊主頭は、健全なイメージだろうか。スキンヘッドと言えば、怖い人たちという見方もある。

学校で指導を行なう人には、そここそが所属集団で、そこでの規範が生活すべてを定めるのかもしれないけれど、生徒たちは学校の一員であると同時に外の社会にも属していて、外のふつうの常識を持ち合わせているのだろう。外では特別なことではない髪染めが、逸脱したい生徒の自己主張になるのは、彼らにとっても、そここそが自分たちの居場所であり、そこでの規範が破るべき対象ということだろうか。ならばいっさいお咎めなしにしてしまえば、ふつうの子のオシャレとの区別もなくなり、逸脱の意味をもたなくなるかもしれない。

ツッパリ女子のスカートが裾を引きずりそうに長かった時代があった。今は、短いスカートがいけないらしい。スカートの長さが不良の尺度になるのかどうかは知らないけれど、ひと昔前と逆になっているのを見ると、ただの流行り廃りに目くじらを立てているように思う。管理をしたがる人たちは、長いものが流行ると長いものを、短いものが流行ると短いものを禁止したがる気がする。そうやって、反抗したい子に逆らう材料を与えているだけのような、取り締まりを通じてそういう子たちとの交流の機会をつくっているような。

*1:毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20171027/k00/00e/040/327000c など。

*2:ネットに公開されているコーパスなどのデータベースは、こういう言葉がいつ頃からどのくらい使われているか、調べることができる。利用は学術研究や教育にかぎるというので、ちょっとだけ見てみたところ、収録範囲は限定的ながら、「茶髪」は1995年前後に使われ始め、90年代終わりくらいから一般化しているようだった。

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