伝統は不公正を正当化しない

~ 女人禁制の性差別 ~

人命より伝統?

4月4日に舞鶴市で行なわれた大相撲春巡業で、土俵上で挨拶に立った多々見良三市長がくも膜下出血で倒れ、救命処置を施そうとした女性が土俵から降りるよう促された。報道によると、医療の心得がある女性が市長の救命処置にあたっているとき、行司が「女性は土俵から降りてください」と場内アナウンスを繰り返したという。日本相撲協会は、行司が動転して呼びかけたが、人命にかかわる状況には不適切な対応であったと、救命にあたった女性たちに感謝するとともにお詫びを同日付で表明している。

釈明はなされたものの、人の命がかかっているときに女人禁制に固執したというので恰好の話題となった。だが場内放送を行なった行司は、何が起こっていたのか、よくわかっていなかったのかもしれない。土俵上で何かあって、人が集まって何かし始め、女性が上がって行ったら、あれはだめだろうと一部の観客に言われた、それで、人命救助とはわからず降りてくださいと言ってしまったのではないだろうか。そう考えると、人命より伝統が大事なのかという議論にはならない。もとより私たちの社会に、人命に優先する伝統というものはない。対応が問われるのは「平時」だ。

神事か興行か

翌々日の4月6日、宝塚市での巡業で、土俵上での挨拶を希望していた中川智子市長は、協会から「伝統に配慮してほしい」と退けられて、土俵下で挨拶し、女人禁制について問題提起したという。4日の出来事を踏まえての要望だったらしいが、舞鶴の市長が土俵上で挨拶したからということなのか、舞鶴で女性を土俵から降ろそうとしたことに非難の声が上がったからなのかは、わからない。後者であったとしてもそれは緊急時のことであって、そういうことがあったからといって女性が土俵に上がることが認められたりはしなかったようだ。

そもそもなぜ土俵上は女人禁制なのか。相撲の神様は女神であり、女性にやきもちを焼くからという、どこかのデートスポットの都市伝説のような解説を、事件後に見聞きした。これは初耳であった。私の理解では、相撲は最初は神事であった。神に奉納するものであった。神聖な儀式である。女性はその当時、不浄と見なされていたため、この神聖な場から遠ざけられていた。女性を不浄とみるのはたいへん差別的であるが、古代、人の死が今日よりもずっと人智を超えた恐ろしいものであった頃、死を連想させる血と女性の月経とが結びつき、穢れと位置づけられたのではないかと思う。危険を伴う格闘が行なわれる場では不吉だと考えられたのではないだろうか。

宗教活動の場などでは、日本に限らず、また女性に限らず、異性の立ち入りを禁ずるところがある。が、性差別という批判は、寡聞にしてか、あまり聞かない。私たちは日々の暮らしで神霊的なものを気にかけ、御利益を期待したり祟りを怖れたりし、信仰や伝統に基づくしきたりに敬意をはらう。相撲関係者は、土俵を霊場修道院などと同じように見てもらうことを期待しているのだろう。相撲に携わる人たちが、自分たちの営みはとても神聖なものであると信じ、神を畏れ、女性が土俵に上がったら力士が大怪我をするといった神罰を本気で懸念し、お願いだから女性は遠慮してほしいと考えているのなら、それでも差別という批判は免れないが、そういう見方もしてもらえるかもしれない。しかし今の相撲は、より多くの人に身近であろうとしたためか、興行を優先したためか、それほど厳かな感じがしない。神事を模したイベントとみている人も少なくないのではないだろうか。

不誠実なのか無頓着なのか

ある個人ないし集団に対する、正当な理由のない不当な扱いを、一般に差別という。正当、不当に絶対的な尺度や基準はない。扱われた側がどう感じるかが大きい。女性差別という批判に向き合うとき、勘案すべきは、私たちの社会が長きにわたりさまざまな点において男性優位であったこと、そして未だに男性優位であることだ。心情的に女性を蔑ろにする態度も未だ散見される。ずっと差別扱いを受けてきた人たちが対象だからなおのこと、不当と思われかねない措置については、理由が正当であり扱いが不当でないという考えを、かなり丁寧に説明し、理解を得る努力をしなくてはならない。

なぜ土俵に女性はだめなのか、はるか昔からの由緒ある慣わしであって世の中の差別とは違うんですというような説明を、見聞きした覚えがない。「伝統だから」というぞんざいな決まり文句が繰り返されている。神様がやきもちを焼くと信じられているのか。当の関係者もよく知らないのではないか。伝統を拠り所としているなら、敬虔さや畏怖の念を、どの程度持ち合わせているのだろう。性別を理由とする排除は人の尊厳にかかわる、とても重大な問題である。また私的な集いではなく公的な場である。伝統を口にするなら、制度の由来や根拠を明らかにし、あらゆる機会を通じて説明し、自らも尊ぶ態度を見せてほしい。

宝塚市での巡業の2日後、4月8日の静岡市での巡業では、「ちびっこ相撲」に女の子が参加できないことになったと報じられた。以前はそんなことはなかったという。女の子は怪我が心配なのだそうだ。稚拙な屁理屈である。子供を相手にするときはとりわけ怪我をさせない配慮が必要になるが、なにも女の子に限ったことではないだろう。女性を忌む古代の考えでは、月経のない子供はまだ女性ではなく、女人禁制の対象外である。一連の出来事では、女性を排除することの正当性は自明であり語るまでもないというような不遜さと、事の重大さを認識していない不見識がずっと感じられていた。しかし実はもっと初歩的な話であって、閉鎖的で因襲的で独善的な人たちが、伝統にかこつけて女性差別の陋習を正当化しているだけのようだ。舞鶴市の一件も、救命行為とわかっていて女性を立ち退かせようとしたのなら、事態は深刻だ。だが、そのような行動をとらせる何かが、この人たちにはあるように思えてくるのである。

 

キラキラネームが不良なら

~ 逸脱行動 ~

茶髪

ちょっと前のこと、高校生の髪染めが取り沙汰されていた。茶髪の禁止は珍しくないけれど、報じられていたのは、女子生徒が褐色の地毛を黒く染めるよう命じられたという話で、指導に従ったものの不十分とみなされ、文化祭や修学旅行、新学期のクラス編成から排除され、精神的苦痛への損害賠償を求める裁判を起こした、というものだった*1

多感な時期に頭髪検査やら持ち物検査やらで規則とか禁止とか違反とか言われた身としては、「またやってる…」「まだやってる…」と思う。生徒への対応は報復にしか思えないし、身体の特徴の否定は人権侵害。地毛の茶色を可とすると、皆が茶髪にして地毛だと言い張るので、生まれついての髪の色でも黒く染めさせるのだという。もしもキラキラネームの子に行ないの良くない子が多いと考えたら、改名させるのだろうか。そもそも、地毛であろうが染めようが、髪の色を学校の規則で禁止する合理的な理由って何なのだろう。

子供の頃、髪を染めたり脱色したりしているのは、ちょっと悪い人かヘンな人だと思っていた。そういう外見の人はたいてい、ちょっと怖そうだった。でも1990年代半ばくらいに「チャパツ」という言い方ができ*2、その頃の現代用語辞典はこの新語をツッパリの代名詞のように紹介していたけれど、年齢性別問わず茶髪をふつうに目にするようになって、黒くない髪は特殊ではなくなったと思っていた。茶髪は不良だというのは前世紀の考え方だと。

エビデンス

女子生徒に厳しく応じた高校に対して批判的なコメントが多いなか、そういう批判は荒れている学校の現実を知らない人の発言だという指摘を目にした。非行と茶髪はリンクしていて、先生たちは徹底した指導が有効だと言っているという。茶髪が非行につながるというのはステレオタイプに思えるけれど、そういうものだろうか。個人の人格にかかわることなので、そしておかしいと感じている人もいるので、現場の主観だけでなく、客観的な根拠を知りたいと思う。規則に反してまで髪を染めるような生徒なら、ほかにも問題を起こすのかもしれない。でも単なるオシャレで髪を染めたい子もいるだろう。茶髪なら皆、不良なのか。髪の色と問題行動の関連を調べた統計データってないのだろうか。髪染めと問題行動に相関関係があったとして、因果関係はどうなのか。

髪を染めたら不良になるのではなく、不良は髪を染めたがるのだと思う(髪を染めたら、不良とは言われる)。髪の色や服装を指導するのは効果があるというけれど、それは問題行動を象徴する(とみなした)髪の色や服装をまとった生徒を選んで指導した成果では。髪を黒くしたら不良が改心するということではないだろう。指導する側は問題行動に手を焼きいらだっているのだろうけれど、指導される側の経験からは、現場の思想が感情論と力ずくにみえる。なぜ髪染めを禁止するのか(大人や他校の生徒は許されるのに)、禁止したり強制したり排除したら具体的にどれくらいの効果があるのか、当の生徒に対しても保護者に対しても、学校を運営する自治体に対しても、自治体にかかわる納税者や有権者に対しても、権力を行使する側が、論理的に説明する必要があると思うのだけれど…。

逸脱行動

問題行動に及ぶ生徒たちが髪を染めようとするのは、それがかっこいいからだろうか、それとも禁じられているからだろうか。規範からの逸脱は彼らにとって大事な自己主張かもしれない。逸脱は世間で好まれないとしても、なぜか学校はことさらに、ほかと異なる存在を嫌がり、画一化したがるようだ。規格から外れたら問題視されてしまう。会社でも対外的な事情などで茶髪不可というところはあるけれど、いまどき髪を染める行為を反社会的とみる向きは少ないだろう。逆に学校が好む坊主頭は、健全なイメージだろうか。スキンヘッドと言えば、怖い人たちという見方もある。

学校で指導を行なう人には、そここそが所属集団で、そこでの規範が生活すべてを定めるのかもしれないけれど、生徒たちは学校の一員であると同時に外の社会にも属していて、外のふつうの常識を持ち合わせているのだろう。外では特別なことではない髪染めが、逸脱したい生徒の自己主張になるのは、彼らにとっても、そここそが自分たちの居場所であり、そこでの規範が破るべき対象ということだろうか。ならばいっさいお咎めなしにしてしまえば、ふつうの子のオシャレとの区別もなくなり、逸脱の意味をもたなくなるかもしれない。

ツッパリ女子のスカートが裾を引きずりそうに長かった時代があった。今は、短いスカートがいけないらしい。スカートの長さが不良の尺度になるのかどうかは知らないけれど、ひと昔前と逆になっているのを見ると、ただの流行り廃りに目くじらを立てているように思う。管理をしたがる人たちは、長いものが流行ると長いものを、短いものが流行ると短いものを禁止したがる気がする。そうやって、反抗したい子に逆らう材料を与えているだけのような、取り締まりを通じてそういう子たちとの交流の機会をつくっているような。

*1:毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20171027/k00/00e/040/327000c など。

*2:ネットに公開されているコーパスなどのデータベースは、こういう言葉がいつ頃からどのくらい使われているか、調べることができる。利用は学術研究や教育にかぎるというので、ちょっとだけ見てみたところ、収録範囲は限定的ながら、「茶髪」は1995年前後に使われ始め、90年代終わりくらいから一般化しているようだった。

RDDは留守番電話から回答を得るか

無人格コミュニケーション ~

パッシング

他車をあおったり幅寄せしたりという運転トラブルのニュースが、10月半ばくらいから急に増えた。事件を起こした運転者が「パッシングされたから」と言い張ったなどとも報じられている。

パッシングはpassingで、もとは追い越す(pass)ことを意味する和製語だろうけれど、ただライトを点滅させるだけでもパッシングといっている。後ろから来たクルマにパッシングされたら、「追い越しますよ」「先に行かせて」ではなく、「どけ」「早く行け」という意味に感じる人が多いのではないかと思う。

後ろのクルマではなく、対向車がライトを点滅させたら? 「この先で取り締まりやってるよ」。数年前、流れの良い都道で向こうから来たBMWがライトをピカッ、「え?何?」と思っていたら路肩からお巡りさんが現れ、スピード違反で切符を切られてしまった。「ライト点いてるよ」とか「お先にどうぞ」とか、いろいろなお知らせが頭に浮かんで、高い授業料を払ってしまった。

では譲り合いの合図ならどうかというと、これは何十年か前のこと、伊豆の狭い山道で前から来たバスにパッシングされたので、「どうぞ」だと思ってアクセルを踏んだら向こうも進んできて、ちょっとあわてた。「行くぞ」の意味だったらしい。あのあたりではそういう意味なのかと思ったけれど、都内でもパッシングして右折するクルマを目にすることがある。

交通ルールは基本的に解釈の余地がないはずで、ブレーキランプが点灯すればそのクルマは減速し、ウインカーが点滅すればその方向に進路を変えるのだとわかる。人や場所によって意味が違ったりはしない。パッシングは注意を促すもので、挨拶とか個人的な合図に使ってはいけないと、教習所で教わった。それで公式のルールがなくて、「どうぞ」と「行くぞ」のようなまったく逆の使われ方もするのだろう。

無人格コミュニケーション

言葉で伝えられれば誤解は起こりにくいけれど、クルマに乗っていて「お先にどうぞ」と言っても、聞こえないことも多い。「どうぞ」と手ぶりで示して気づいてもらえれば、伝わる可能性が高い。ひと昔ほど前、香港やバンコクのような東南アジアの街でクルマや人が雑多に行き交いながら大きな事故にならないのは、互いに相手の顔を見ていて、動きが予測できるからだというのを何かで読んだ覚えがある。いまはどうか知らない。でも確かに、近所のスーパーの駐車場の出入口で、係の人の誘導に戸惑うとき(けっこうある)、誘導の人はこっちの方を見ているけれど、こっちの顔は見ていない。

相手の表情がわかるくらい近ければ良いけれど、何十mも離れていたり時速何十kmで走っていたら、よく見えない。それで必要に迫られて、パッシングやハザードランプの点滅といった合図が生まれたのだろう。言葉を使わず手ぶりや表情などで意思を伝えるのを非言語コミュニケーションというけれど、これも一種の非言語コミュニケーションといえるだろうか。激しい点滅や鋭いハイビームからは、イライラや怒りなども感じられる。

同じような動作でも、ブレーキランプの点灯やウインカーの点滅をコミュニケーションというのには、なんとなく違和感がある。コミュニケーションとは「人々がなにものか(情報、観念、態度、行動、感情、経験など)を共有すること」*1で、communicationの語源は「‘to share’」*2というから、「減速する」「曲がる」といった情報の通知もコミュニケーションといって良さそうに思えるけれど、何かしっくりこない気がする。

手招きは相手の姿が見えるし、表情からも「どうぞ」とわかったりする。交通ルールで決められている手信号は「進め」「停まれ」と合図しているだけで感情はなくても、合図を出している人の姿や顔が見える。パッシングは操作している人物が機械の向こうにいて、その姿は見えないけれど、動作から意思がうかがい知れる。ブレーキランプの点灯は減速を伝えているけれど、機械が動作しているだけで感情はなく、無人格だ。機械に返事をしようとする人は、あまりいないと思う。人格が伴わない発信はコミュニケーションにならないのだろうか。

留守番電話

選挙前のある日、わが家の固定電話が鳴った。相手が確認できるまでは受話器を取らないことにしており、見知らぬ番号からなので放っておいたら、留守番電話に切り替わった。相手は世論調査。訪問調査に代わってRDD(Random Digit Dialing)という電話調査が行なわれているのは知っていたけれど、それが自動音声なのは知らなかった。留守電の機械音声が「ただいま留守にしております」と応じているのに、向こうも一方的に、音声に従ってボタンを押してくださいとか何とか言っている。何だこれ? 機械同士でしゃべってる…。

言語による無人格のコミュニケーション。いや、お互い勝手に音声を発しているだけで、相手の発する言葉はいっさい理解していないから、何も共有されていない。留守電はメッセージを残すよう求め、RDDはボタン操作を待っているので、機械なりに情報をやりとりしようとしているといえなくもないけれど、さすがにコミュニケーションというのは無理がある。

世論調査の方は、しばらく応答がなければ自動的に切れるようになっているらしく、空虚なやりとりはじきに終わった。ところが…。いったん対象者を選んだら、一度や二度の不在で調査をあきらめたりはしないのだろう。このあと何度か同じ電話がかかってきて、「コチラハ××デス」「タダイマ留守ニシテオリマス」と、シュールな会話が繰り返された。最近話題のスマートスピーカーを2台向き合わせてしゃべらせたら、擬似的でもコミニュケーションを成立させるのだろうか。

*1:岡田直之. "コミュニケーション" 日本大百科全書. 小学館. ジャパンナレッジPersonal. http://japanknowledge.com/psnl/, (参照 2017-11-18)

*2:"communication | Definition of communication in English by Oxford Dictionaries". Oxford Dictionaries. https://en.oxforddictionaries.com/definition/communication, (参照 2017-11-18)

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